中欧編 Bosnia-Herzegovina(2)Sarajevo事件の簡単なまとめ。
ボスニアヘルツェゴビナ(以下、BH)の首都サラエボに来た理由は、『サラエボ事件』が起きた現場を見たかったから。
↑↑暗殺場面を描いた新聞挿絵, 1914年7月12日付
『がっつり世界史のテストの予想問題』ってだけじゃなくて、その後の歴史を見るとサラエボ事件はとっても重要だと思います。
サラエボ事件は第一次世界大戦の引き金(の一つ)になって、その後の第二次時世界大戦や太平洋戦争にも絡んでくるしね。ちょっと事件現場のラテン橋を見てみたくなった。
今日は、先にサラエボ事件の復習。社会の教科書みたいですけどね ( ̄□ ̄;)。
教科書的にはオーストリア皇太子がボスニア出身のセルビア人の青年に暗殺されたと、歴史の授業で習ったけど、これ正確な情報ではありません。
正確には皇太子ではなく、皇位継承権を持った人。奥さんの身分が低くて、当時オーストリアハンガリー帝国を統治していたハプスブルグ家が彼女を一族と認めなかったんだそう。名家だから、色々ありそうですね。
左;フェルディナンドさん 右:奥さんのゾフィー。奥さん、可憐な人ですね。
発生日:1914年6月28日
犯人:ボスニア系セルビア人の青年プリンツィプを含む7人のグループ。
事件の背景:
当時、BHはオーストリア領に併合されてて、ボスニアのセルビア人達はとっても不満に思ってた。
セルビア人にとって、屈辱の日の6月28日に大公が訪問したり、暗殺日が大公夫妻の14回目の結婚記念日だったり、何かとセルビア人にとって腹立たしい日だったみたい。
6月28日の屈辱の日というのは、セルビア vs オスマントルコの『コソボの戦い』で1389年6月28日の大戦に敗北してしまったのです。この日以降、セルビア人は非支配者側としての苦難の日々が始まる分けで、苦々しい日だったんだとうと思う。
日本では、暗殺した青年(プリンツィプ)の単独行動みたいな捉えられ方をしているけど、高度に政治がからんでいる事件です。
7人グループで綿密に計画も立てられてて、犯行に使われた拳銃は、な・な・なんとセルビア政府が支給したものだったんだって。
事件当日の時系列
1 川沿いを大公を乗せた車に爆弾が投げつけられる。
可憐だった奥さん。。。あれれ?
2 爆弾は爆発するのに、時間がかかって暗殺失敗。後続車にけが人が出る。
3 大公は市庁舎に避難。
↑↑現在の市庁舎
4 大公はけが人を見舞うために病院に向かう。優しい人だね。
5 運転手が途中で道を間違えてUターン。
6 Uターンしている場所近くの飲食店で、たまたまプリンティプが昼食食べてた。
7 とっさに拳銃を抜いて、プリンツィプが殺害。
8 プリンツィプはその場で逮捕。
↑↑プリンツィプ逮捕の様子。
9 総督官邸到着数分でフェルエィナンドは死亡。病院に向かう途中に奥さんは死亡。
サラエボ事件は、偶然に偶然が重なって発生しました。
その時、フェルディナンド夫妻が乗っていた車はこちら。
ウィーンの王立博物館に展示してあるものです。後部車輪の上部に銃痕があるんだって。
その実行グループメンバーがその後どうなったか、気になるよね?
暗殺に成功したプリンツィプは終身刑になります。えーっ?3人の人間(フェルディナンド、奥さん、お腹の子供)を殺害しておいて、終身刑?って思いましたよ。
そして、獄中で結核で亡くなります。
他のメンバーは、出獄した後に暗殺されたり、病気になったり亡くなったり、天寿を全うしたりと様々。
中でも、『ポポヴィッチ』て人。この人、私が訪問したサラエボ博物館の学芸員をされていたそう。残念ながら1980年に亡くなられているけど。
自分が訪問した博物館で、あのサラエボ事件の関係者が働いていたなんて、すごすぎる。興奮してきた。暑く語ってしまって、疲れたので実際の訪問記はまた、明日。
では!